面と向かって人に罵られる経験は、考えてみると意外にもあまりなかった。
「目障りなのよね」
ずい、と。麦酒を並々と満たしたジョッキごと、細く白い握りこぶしが眼前に突き出される。
「目障りなのよ」
「何がだ」
見えない敵を攻撃するように、すぐ鼻先の空を切る拳を眺める。いかにも不満げに振りかぶられたそれは、二、三度ジョッキを中空で揺らすと、やがてするすると主の胸元へ戻った。
「敵」
とても、手強いのよ。杯の縁から溢れる酒を舐め取りながら、唇を尖らせる彼女は既に出来上がっている。寝耳に水とばかり転がり込んだ大金の副作用か、近頃とみにふくよかさの目立つ肢体を、酒場の椅子にもの憂く預ける姿は扇情的だ。
「何の話だ?」
宵の口と言うにはやや遅すぎるか、夜の浅瀬を刻打つ頃。語るほどでもないささやかな仕事を終え、いつものように酒宴に繰り出した最中、唐突に女が虎へ化けた。勿論、これは比喩的な意味――実際獣になるにはまだ、少しどころでなく修行が足りない――だが、しかし、時には人の皮を被った獣も充分恐ろしく感じるものだ。とりわけ、こんな常識も理性も会話をするための努力も放り投げた、泥酔と散財のただ中では。
「あんた」
「わたし?」
「そうよ」
紅を刷いた艶やかな唇が、何を今さらとばかりにまた肯定の単語を紡ぐ。この女に酒乱の気はあっただろうか、思い返そうとして、そもそも普段が普段であると溜め息を吐いた。常日頃を常識の埒外で暮らしている者に、それを求めるのは徒労と言うものだ。
「わたしにお前と敵対する意図はない。例えそのような意志があったとしても、利がない」
「あたしにはあるの」
「意味がわからないが」
「釘!」
「釘?」
「そう。釘を刺してるの」
わからない。話をすればするほど、彼女の口から意味の通らない言葉が迸る。言語が通じない相手には相対したことがあるが、言葉が通じて意志の疎通がならない相手に立ち会ったのは、ほぼ初めてでなかろうか。世に不条理の類いは数あれど、何もそれが己に降りかからなくてもいいものを。例えば降りかかるのが自分でなく、あの男でもいいのではないかと、乱痴気騒ぎのただ中に立つ姿を見る。丁寧に切り揃えられた黒髪に、戦士としてはやや長身な体格。逞しさを増しつつある腕に丸っこい草妖精をぶら下げ、しきりに振り落とそうともがいている。
「また見た」
「何をだ」
「あんた、今夜は質問ばっかりね」
「…お前が、意味のわからんことばかりを言うからだろうが」
「わかんないの?」
積み重なった皿を器用に避けながら、露出の目立つ身体が寄りかかってくる。傍目から見ればただしなだれかかっているだけのようであって、その実、肩口を引っかける腕の力は強い。
「アレよ」
いつの間にか、しなやかな指の間に長いフォークが挟まっていた。揚げ芋が刺さったままの先端が向く方向は、丁度、自分が見ているものと同じだ。
「あんた、気が付くといつも、アレを見てるでしょ」
「アレ?」
「あいつ。あの男」
「グイズノーか?」
「アーチボルトよ!」
馬鹿ね、と不機嫌そうに髪を掻き上げる仕草に、面倒だと厭わしく感じつつも謎が解けることはない。相手の言動に不愉快が募らないではないが、どうせ、酒が抜ければ忘れることだ。
「今日だけじゃないわ。酒飲む度に、酔って隅っこでアレばっかり見て、一人で満足して、もうどうしようもないったらありゃしないじゃない」
「わたしは、別にそんなことはしていないが」
「してるの!」
むう、と無理に肩を怒らせて見せる様は、使い魔の猫そっくりだ。こういう幼い顔はなかなか可愛らしいのに、と、他人事ながら内心残念がってみる。
「自分で気付いてないなら言ってあげるけど、あんた最近ずっとアーチボルトの横にいるでしょう。ダメよそれは。アレはあたしのなんだから。先にあたしが手を出したんだから、あたしのなんだからね」
「…お前が何を言ってるのか、わたしには良くわからないのだが。さっきから」
相当したたかに寄っているのだろう。癖のない真っ直ぐな黒髪を、指先で撫でてやる。円い肩の稜線に沿って流れ落ちるそれは、豊かな胸元でやがて蛇のうねりを真似た。
「お前が何を心配しているのか知らんが、わたしは男だし、あいつも男だぞ。…それはまあ、人間の趣味は多様だから…そういう嗜好の奴もいるかもしれないが…しかしわたしは別に」
「そこはまだいいのよ」
また、訳のわからないことを言い出す。人の言葉を遮ってまで、この女魔術師は何を懸念しているのか。
「あんたは、まだいいの。あたしがこうやって、釘を刺せるから、いいの」
問題は、あいつ。ぽつりと呟く彼女の横顔が、不意に困り果てている幼子のそれと摩り変わる。
「あんたは、その様子じゃ気付いてないんだろうけど…見てるのよ。あいつも」
うとうとと。ゆらゆらと。声の調子を落とした辺りからか、彼女の表情には、明らかな疲労の色が滲み始めていた。
「…あんたのこと。あたしとは違う見方で、あたしの欲しい見方で、あんたのこと、見てるの」
呟かれる内容は、耳を通り抜けて頭まで届かない。届かぬのに、導かれるまま、顔を上げて彼を見る。
視線が、合う。
「…取らないでよね」
己の肩に頭を預けたまま、彼女が、小さな声で呻くように言った。
「アーチボルトを。あたしから、取らないで…」
繰り返しながら、それでもその言葉には、何故か諦めが含まれているように聞こえた。次第に意味を為さなくなり、音の羅列から静かな吐息へと変わるそれを、耳元に受けながら唇を噛み締める。
どうしろと言うのだ。言われなければきっと気付きもしなかったのに。一瞬視線を絡ませ合っただけで、それきり軽口すら紡げない。彼女の欲しい視線。己には縁のないはずの視線。その意味がわかる時がいつか、来るのだろうか。来て、しまうのだろうか。
「…………」
ふい、と、彼がこちらに背を向ける。どれくらい見つめあっていたのだろうか、汗の滲む掌で触れた杯は、随分とぬるびている。
人肌加減の葡萄酒を、喉に流し込みながら思う。全く変な夜だ。女は虎に化け、虎は藪をつつき、藪からは避けて通れたはずの蛇が出る。そうして誘い出された蛇はこれから、どこに向かい這うのだろうか。
「…知るか、全く」
空の杯にありったけの酒を注ぎ込んで、浴びる、根こそぎ糧にする。
こんなにおかしな夜があるのなら、エルフでも、ほろ酔い程度じゃやっていられない。
スイフリーとフィリスさんのコンビって結構かわゆいですよね。
両手に花だなアーチボルト・・・SBSさん、ありがとうございました!
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