「…またか、お前」
一瞬の後にどうにか押し出した言葉は、幸いなことに揺らいではいなかった。
「近頃来る度それだろう。実家にはちゃんと顔を出しているのか?お前のご両親がどう考えているのか知らんが…」
「説教は勘弁してくれないか。茶が不味くなる」
「わたしの淹れる茶が不味いわけ無かろう」
「…情緒の問題だ」
だいたい、近頃と言っても二月前のことだろう。聞こえよがしにぶつぶつと呟く男に、黙って二杯目を注いでやる。どうにも、言葉を発しにくい。何を言おうが或いは何も言うまいが、跳ね上がった心臓はなかなか鼓動を鎮めそうにない。
「客人面をするなら、後で戸棚の整理を手伝え。この間パラサが引っ掻き回したせいで、訳がわからんことになった」
「それはつまり、泊まって構わないということか?」
「…嫌だと言っても泊まるつもりだろう。お前のことだから」
言いつつも、そんな事態はまずないと頭のどこかで考えている。見た目と態度に反してそれなりの理性を持ち合わせる彼は、仮に己がひとこと告げれば簡単に席を立つだろう。あり得ない話をわざと持ち出すのは、詰まるところ、こちらの心情の問題でしかない。
どうしようもなく、恥ずかしいだけなのだ。一も二もなく頷いて、彼を待ちわびていた己の心をさらけ出すのが。大人気のない煩悶は隠したまま、不承不承頷いてやる。
「…もう少ししたら日も落ちるし、そうなれば、森の路は人の目で見通せまい。お前、どうせランタンなど持ってきておらんのだろう?」
「そうだな」
「しかし、私がわざわざ送ってやるのも馬鹿馬鹿しい。それなら、夜が明けるまで待って、一人でお帰り願うのが良い、…そういうことだ。わかったか」
ふいと顔を背けて黙るエルフの、長い耳がほんのり赤い。それは見なかったことにして、アーチボルトは「なるほど」と相槌を打っておいた。慣れてくれば、かの天の邪鬼の心情を推し量るのもさほど難しいことではないのだ。
「ならば、ただ飯食らいはせいぜい雑用を手伝うとしよう」
「良い心掛けだ。…なるほど、力仕事を片付けさせるという手もあるな」
「…とりあえず、茶ぐらいは最後まで飲ませてくれ」
2杯目に口をつけ、ちびちびと啜るアーチボルトである。揺れる湯気の向こうで、楽しげに笑う友人の姿があった。
――人間と共に過ごす一時は、己の時計には、まるで刹那のように感じられる。
日々のよしなしに係る無駄話を交え、それなりの作業を終えた時には、窓の外に鮮やかな朱の空が広がっていた。もう数刻もせぬうちに、陽は沈み、森は穏やかな闇へと抱かれるだろう。
暮れ泥む西の天には鳥の影もない。風に乗り、街から微かに響く鐘の音がどこか哀惜を帯びて、彼そ誰の夕暮れに相応しい。
「…日が長くなったな」
四角く切り取られた夕空を眺めながら、何気なく男が呟く。力仕事に駆り出し、薪割りだの、狩りの手伝いだのと散々に働かせたせいだろう。常の礼装に代えて簡素な貫頭衣を纏い、額にうっすらと汗を浮かべた姿を見ながら、眼前に冷水を差し出してやる。
「春来たりなば夏遠からじと言うだろう。日が伸びるのはこれからが本番だな」
「夏か…」
幾分かげんなりとした調子で声が返る。駆け出しの頃ならばいざ知らず、騎士位を授けられた今、身に纏う機会の多い装いはいずれも夏に向かないだろう。笑うことでもないと思いつつ、陽射しの中でまばゆい服装に茹だる男を想像すると、つい口元が緩んでしまう。
「お勤めご苦労、騎士殿」
せめてもの労いに、と水を継ぎ足し、狩りの収穫物を台所に一通り並べる。彼の努力に報いてやれるだけの晩餐を、どうにか用意してやりたいが、さて。
喉奥に流し込んだ水が、身の内から熱をぬぐい去って行く。清涼感が喉を下り、腹に落ちて、アーチボルトはやっと息をついた。請われるまま薪を割り、野草を摘み、やり慣れぬ労働に従事したせいか、少し汗をかいた。けれども、悪くない疲労だった。己の手で日々の糧を得るということの充実感を、久々に思い出した気がする。
「鳥は好きか?」
こちらに背を向け、腕を組んで熟考していたエルフが、視線はそのままに問うてくる。覗きこんだ肩越しに、哀れ脚をくくられた鳥が一羽。
「好きだ」
「なら、シチューだな」
「雉のシチューか?豪勢じゃないか」
「山鳥だ」
お前、本当に学院にいたのだろうな、と憎まれ口を叩きつつ、器用な指先は手早く獲物の羽を毟ってゆく。手慣れたものだ。彼の家に泊まる楽しみの一つは、森の恵みをたっぷり使ったこの料理にある。
「お前は相変わらず器用だな」
「フィリスの方が腕は上だ。…おい、アーチボルト、血抜きがちゃんとできてないぞ。絞めたその場で抜かないと、味が落ちると言っただろう」
「私は不器用なんだ」
「…それは無論承知してるがな」
飯の準備ぐらい手伝えんでどうする。世話女房のような小言を聞き流している内に、鳥の下拵えは殆ど終わっていた。
手頃な大きさに捌いた山鳥の肉を、束ねた香草や茸と諸ともに鍋へと放り込む。余りの部位は他の肉と塩に浸けておくか、日が昇った後で干しておけばいい。下処理さえ施してしまえば、獣肉といえどもそれほど足が早いわけではない。
「まあ、今のお前に、自分で飯炊きをする必要があるとも思わないが」
塩壺からひとつまみ、ぱらぱらと振りかけて鍋を掻き回す。火の具合を確かめ、焦げ付きが起こらない程度に、とサラマンダーを宥めておく。
「技術というものは、どのような類いであれ会得しておいて損はないぞ。知識は実践の段階を経てこそ有効に活用できるものだ」
「それには、全面的に賛同したいところだが」
「なら、貴重な機会を逃すべきではないだろう?」
まあな、と気のない返事が聞こえる。振り返れば男は椅子に腰掛け、整頓したばかりの戸棚から早速書物を紐解いていた。然して興味深い内容とも思えないそれを、戯れのように捲りながら言う。
「それでも、お前の作ったものの方が旨い」
「…調子の良い奴だ、」
彼の目がこちらに向いていなかったのは、幸いと言えることなのだろうか。ぐるぐると掻き回す鍋の中身を覗き込めば、ぎこちなく固まった己の顔が見える。
数年前に出た経済の啓蒙書、それも少しばかりマニアックな奴だ。読もう読もうと思ってなかなか果たせなかったそれを本棚で見つけ、つくづく変わった趣味のエルフだ、と思いつつ手に取る。…無論、己も他人のことは言えないわけだが。
「……」
コトコトと鍋が揺れる音を聞きつつ、手慰みに頁を捲ってみれば、森の古家に保管されていたとは思えぬほど状態は良かった。雨漏りには気をつけているのだろう、ウンディーネと羊皮紙の相性はお世辞にも良いとは言えない。
「アーチボルト」
1章を読み終わる頃、台所からエルフが顔を出した。
「そろそろ煮えるぞ」
「うむ」
「…『うむ』じゃない、手伝え。実家じゃないんだ、座っているだけで飯が出てくると思うな」
「もう少しで1章を読み終わりそうなんだ」
「結論は後で説明してやる。いいから机を拭け」
「主食は?」
「パンに火を通した。雑穀が入ってるが我慢しろ」
「いや、むしろ好物だよ」
「…なら良い」
程よく煮込んだシチューを皿に盛り付け、見目の足しにと香草を散らす。サラマンダーが融通の利く性分であったのか、目立った焦げもなく仕上がったそれは、いかにも食欲をそそる香りで空腹を刺激する。
温めたパンを小ぶりな篭に詰め、申し訳程度にバランスを整えれば、ようやく、遅い晩餐の支度が整った。とりあえずは読書を断念したのか、極めて大雑把な手付きで食卓を拭く男に、作業の終わりを待って熱い皿を手渡す。
「これはまた、随分と豪勢だな」
「…とりわけ、贅に走ったつもりはないが」
「そうか?外の料理より、どう見ても格段に旨そうだが。…ああ、もしかすると私が手を貸したせいか」
「調子に乗るな」
卓上に、湯気を立てて器が並ぶ。向かい合って座る食卓はいつもよりも手狭で、それだけに、相手の存在を近く感じる。
「どう考えたって、これはわたしの美意識の為せる技ではないか。お前は鳥の血抜きとむしった羽の片付けと食卓の水拭きしかしていないだろうが」
「その前の過程で活躍したではないか」
そんな話はどうでも良いと言わんばかりに、男が眼前の木匙を掴む。つくづく、こんな男を取り立てた人間の国の采配に疑問を感じずにはいられない。
「…まあ、いい…」
下らない軽口は、まず、空っぽの腹を満たしてからにするべきだ。
「頂きます」
「…頂きます」
神妙な顔で手を合わせる男に倣い、誰にともなく呟いて匙を取る。
まず一口食べて、無言になる。
「……」
よく咀嚼してからもう一口。続いてもう一口。さらにもう一口。間にパンを毟って食べて、また一口。
「…不味かったか?」
対面から不安げな声を投げかけられ、アーチボルトはやっと顔をあげた。何を馬鹿な、と眉を跳ね上げて。
「逆だ。美味いに決まってるだろう。食べるのに集中してたんだ」
「無言でか」
「美食は人を沈黙させる」
「ならいいが…」
作った当の本人は、どことなくほっとした様子で匙を取り、くるくるとシチューをかき回している。あまり他人に料理を振る舞うことがないせいだろう、彼は客人の反応にとても敏感だ。同じ仲間内でも、パラサなら分かり易いリアクションで美味い美味いと騒ぎ立てるからいいが、生憎とアーチボルトは自他共に認め鉄面皮である。少し考えて、アーチボルトはもっと噛み砕いた表現で感想を述べた。
「毎日でも食べたいくらいだ。お前が、私のところに来てくれればいいのにな」
無論それは無理な話で、だからこそ、言った当人は冗談のつもりだったのだが。
不意に投げ渡された言葉を理解するまでに、瞬きを、数回繰り返すくらいの時間が必要だった。
言うに事欠いて、いきなり何を言い出すのだろうか、この男は。卓の向こう岸からこちらを見返す顔は、相変わらず、ふざけているのか本気なのか判別の付けがたい表情を保っている。匙を繰る音も絶えて場に動きはなく、痛々しいほどの沈黙に、いっそ長い耳を折って伏せたくなる。
冗談だろうか。冗談に違いはないだろう。だが、万一のことが、彼に限ってないとも言い切れない。しかしその可能性があったとしても、言葉の出所が単なる気紛れにあるのか、はたまた他意があるのか、表面から推し量るのは難しい。
どうにか彼の真意を察せぬものか。思い出せる限りの言動を掘り返してみて、段々と、頭が良からぬ想像に傾いてゆくのに気付く。人の世界の慣習に乏しい己がたったひとつだけ知る、今のような言葉の裏側にあるという意味。ずいぶん前、彼に見合いの話が持ち上がった頃、フィリスか誰かに教わったのだったか。
「…いや、ああ、それは、その。…難しい、と思う、のだが。いろいろと…」
ようやく絞り出した返答は曖昧極まりない。果たしてこんな答えで、彼は納得するのだろうか。
「…?」
匙をくわえたまま、アーチボルトは首を傾げた。長いこと悩んでいたにしては、曖昧な答えだ。
「冗談だぞ」
「えっ?…あ、ああ、無論、判っているとも」
親切に教えてやれば、やはり何か勘違いしていたらしく、取り繕うようにがくがくと首を振ってみせる。全く、言動の裏を読みたがるエルフだ。自分のことは綺麗に棚上げしてアーチボルトは思う。
「とにかく、お前の料理は美味いから、安心しろ。匙が止まっているぞ」
「わ、判っていると言っただろう。冷めるのを待っているだけだ」
「ちなみに、私は2杯目を貰うぞ」
「…もう食べたのか!」
空の器を見せつければ、呆れた顔で大食らいめ、と呟くエルフである。アーチボルトは涼しい顔で台所に向かう。
「お前も早く食べろよ」
「私は味わって食べているのだ。お前とは違う」
「いや、だからな」
よそり終えた皿を机に置き、再び席につきながら、アーチボルトは至極真面目に告げる。
「美味い飯も魅力的だが、床に入るのが遅くなるのも惜しい。こっちは、暗くなるのを待ちわびていたんだぞ」
音を立てて、匙が落ちた。至極平然と告げられた内容に、一瞬、気が遠くなる。
夜になるのを待ちわびた、その言葉の意味するところは何か。日が沈むのを待ってすることなどそう多くはない。都会ならいざ知らず娯楽に乏しい森の中、良い年をした男二人が顔を突き合わせて何をするかなど、嫌が応にも限られる。
それでも、普通の友人同士ならば酒杯を酌み交わし、札遊びに応じて夜を明かすくらいが関の山だろう。問題はこの場に揃った男二人が、いわゆる『普通の友人関係』の範疇から少々はみ出していることだ。
「…ああ、そう、そうだな…まだ、外の話も、十分に聞かせてもらってはいないのだったな。…いや、だが夜は長いぞ、それほど焦るものではない…」
「私が言ったのは、そういう意味合いのことではないのだが」
なるべく穏便な方面に話を逸らそうとする、その努力さえもあっさりと斬って捨てられる。不思議そうに首を傾げる彼の表情からは、己を困らせようとする素振りなど微塵も伝わってこない。或いはそうであったらどんなに気が楽になるだろうか、と、上気した頬を押さえながら思う。
「食べないのか?そろそろ温いのを通り越して、冷めてしまうぞ」
それどころではないというのに、この男は、この男と来たら、…何を考えているのだろう。
一体、このエルフは何を思い悩んでいるのだろう。アーチボルトは首を傾げる。今夜はうるさいグラスランナーやラーダの破戒神官、怪力娘二人もおらず、水入らずで過ごせるというのに。普段、中々顔を合わすことのできぬ自分達からすれば、貴重な機会だ。
今宵は酒を酌み交わすには似合いの月夜、旅の道中の話もしてやりたい。そして、彼がその間、何を考えていたかも聞きたい。もっと、その言葉が欲しい。
「とりあえず、食事を済ませてからにしよう」
「……あ、ああ」
ぎこちなく匙を動かす相手を見ながら、相変わらず不思議な奴だ、と胸の内で呟いた。2杯目のシチューも、アーチボルトの舌には大層美味だった。
リレー小説第2弾。鳥もさばける器用なエルフと気のきかない男、アーチ−。
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